とてもショッキングなニュースが飛び込んできて、伸びて行くツイートをぼんやり眺めていた。

ごめんね、あなたを好きになってごめんね、だけど、あなたに救われていた。

ツイートの物量を遥かに凌駕する悲痛な感情。感情が吐き出されるたびに、その対岸でぽっかりと口を開ける喪失が、彼らの現実を打ちのめして行く。すべての呟きを拾うにも、一つを読むのにも、アンドロイドの画面はあまりに小さい。


 どんなにライブに行っても。CDを聞いても。何を考えても。どうして私は、自分が「応援」しているものの奥にあるのは「生身の人間」なのだという事実を、知らないままなのだろう。知る機会は、いくらでもあったのに。


思い出すのは、4年前。私はある一冊の小説を読み、ある一本の論文を書いていた。その一冊はとても難解で、痛快で、哀しくて、愛おしくて、何回読んでも、私の「読み」はその本そのものに到達できなかった。そんな到達は永遠に訪れえないのだとしても、それにしても私はその一冊の小説の端にすら触れられていない、触れていなさすぎる、という感覚があった。解釈の入り口すら見つけられない私の未熟さと浅はかさに対するいら立ちは、しかし、唐突に、「ある一つの曲」によって解消された。その「一曲」は、それが鍵であったかのように、私の脳に、その小説にしか持ちえない風景を見せてくれた。その時から、その一冊は私の中で立体的な像を結ぶようになった。この「風景」とは「情景」ではない。その小説が描く、一つひとつの場面が、絵のように私の前に立ち現れた、ということではない。その小説の一文字、一文、行間、挿絵。一冊を構成する全てのものの後ろに、毛細血管のように緻密に、地下水道のように無尽に、論理や歴史が連なり、それらが網のように張り巡らされているのが見えた。この立体的な論理を、Wordという平面的な画面の上に、一つなぎの文章として落とし込む。私はそうした強引な作業をすれば良い、たとえ無理でも何とかそれをやれるようにすればいい。そうやって、何とか書いた。

その一曲は、「ポップミュージック」で、オリコン〇位を刻むような、本当に「ただの」ポップミュージックだった。その曲の歌詞に影響を受けた論文の章題は、友人に苦笑された。ミーハーな、アイドル・ソング。しかし、それに影響を受けたその論文は、確かに、当時の私の、渾身の一投だった。その一本がなければ、私は「浅薄な私の読み」という呪縛の先に行けなかった。

その曲については、一度だってTwitterでつぶやいたことなんてない。その曲が私に開いた風景は、とても普遍的なものを示しているはずなのに、書きながら聞いたその曲は、あまりにも私のものでしかなかった。

そう、あまりにも私のものでしかなかった。


例えば誰かの歌に感動して。私が何かの言葉を紡ぐたび、その作品は、その作品ではないものになって行く。かつてそうであったその作品は、私が解釈し、紡ぐ言葉においては、すでに「その作品」そのものではない。私の解釈は、解釈としてのズレを含み込み、どうしたって、そこにある「それ」を「それ」のままにはしておけない。私は、歪み、変形した「それ」を享受することしかできない。できるとすれば、その歪みを歪みとして知れるよう、知識や他者の解釈を学び、自らの解釈が生み出す「ずれ」を「ずれ」として読み解けるようになること。けれど、私の学びは追いつかず、いつも「それ」を歪ませ続ける。

そして、その歪みの快楽を貪れば貪るほど、私は、「それ」を作った誰かが確かに存在していて、その誰かが、それを作るためにかけた膨大な時間と、そのために削り取った命のことを忘れてしまう。忘れれば忘れるほど、私の解釈は「誰か」から削りとられた命そのものまでも、あたかも最初からそこにあったかのように、あたかも「私のもの」であるかのように振る舞い、弄ぶ。

 この「歪み」が持つ暴力性を、恐れながらも、恐れたふりをしていることを免罪符に、私はその「歪み」の快楽を享受し続けている。「歪み」が見せる風景に身を震わせ、言葉にする。そうして、私は、作品が見せる「世界」とやらの奥にある生身の人間をいつも見落とし、その見落としに何らかの理屈をつけて、ゆるやかに日常を続けている。しかし、「歪み」はあくまでも「歪み」でしかない。歪みない「それ」と、私が見つめる「歪み」の間には確かな境界線が存在している。日常に覆い隠されながらも確かに存在している。なのに、私は、その境界線を見ぬふりをして、「歪み」が「それ」そのものであるかのように振る舞い、「それ」に翻弄され、「愛」を語り続ける。その行為は、「それ」自体の崇高を損ない、踏みつけるのに。こんなことをしてしまうなら、いっそ最初から「それ」を知らなければよかったんだと、そう思う瞬間もあるのに、「知らない」ままいることもまた、「それ」から目を背け、耳をふさぐことに他ならないのだ、などと。

生身の人間としてのその人に、解釈をする者としてではなく、生身の人間である「私」として対峙することなどできるのだろうか。そんなことできやしない。それは分かっていても、しかし、端から諦め、投げ出していていいものか。そんなことあるはずはない。失われた者への祈りの言葉は確かにこの現実のTLを浮遊している。きっと、本当は、最初から、祈りの言葉だけ使って生き、ものを書いていればいいのだ。けれど、それができない。どうしてだろう。


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# by n1watooooor1 | 2017-12-21 02:19

確かに昔よりは若くないけれど、それは5歳の子どもだって同じことだ。
今、年齢を理由にすることに慣れてしまったら、これから先の人生、ずっと、「もう年だから」と言い訳をしながら生きて行かないといけない。まだまだ、何十年も人生が残っているのに。諦めるための理由なんてどこにでも転がっているけれど、それを安易に拾い上げてばかりいては、あっという間に年を取ってしまう。
ただ生きているだけでは強くなれない。意志を持って選択することなしに、毎日を重ねることなんてできない。何となく過ぎて行く毎日なんて、何も残さずに流れて行くだけだ。取り戻せない時間を悔いている間にも時間は過ぎて行く。もっともっとと上を見るエネルギーがある間に、できるだけ生きるための時間を生きて行かないとすぐに死んでしまう。あいつの下らない言葉に下を向くより、もっと深く根をはった言葉を辿るために時間を費やさないと。





"正直であらば 怖いものはない"ってとてもいい歌詞。
"世界中が 晴れの日だって チョコがおいしい"っていう歌詞を思い出せば、どんな時もチョコ一粒で頑張れる。

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# by n1watooooor1 | 2016-03-13 23:42 | 他に言う場所がなかった






こんにちは。
今さらなのですが、『ワンダフルワールドエンド』の監督、松居大悟さんの対談集を買いました。

松居大悟 恋愛対談集『さあハイヒール折れろ』
 エクスナレッジから、2015年3月に発売されました!


Twitterで感想を呟いたんですが、Twitterだと流れて行っちゃうので; ダラダラとした感想をメモしておこうと思います。






■思ってたDTと違う!……が

松居大悟恋愛対談集『さあハイヒール折れろ』。

概要を書いておきますと、松居大悟さんは、26歳という若さで『アフロ田中』で監督デビューし、それ以降、コンスタントに映画を発表し続けている新進気鋭の映画監督さんです。
私は、私の好きなシンガーソングライター、大森靖子さんが音楽を担当した映画『ワンダフルワールドエンド』で松居監督の存在を知りました。






寡聞にして知らなかったんですが、松居監督、童貞で有名だそうで。
この『さあハイヒール折れろ』は、そんな「女性に縁のない暮らしをして恋愛における欠陥が生じた」DT、松居監督が恋愛において大切なものを探しにいく本……だそうです。

まえがきにはこんなことが書いてあります。



さぁ前を歩く女性のハイヒールよ折れてくれ! 病院にいくから! さぁ! さぁ!! 極端に言えばこんなレベルで僕は恋愛と接している。
[…]
これは自分から何も行動せずに奇跡にすがる僕と、様々な恋愛猛者の女性たちと熱き激論をかわす楽しい本です。自信はないです。




DTで恋愛ベタ……と聞くと、私のような、2chのまとめサイトに入り浸っている人間は「女の子と手を繋いだこともない、目を見るだけで舌を噛みまくり、女の子に話しかけられることすらない喪男」みたいなイメージを抱いてしまうんですが、実際に対談集を読んでみると、松居監督はそういうDTではなく、女の人とデートに行ったり、女の人を部屋の中に招き入れたりしてます。

なので、恋愛猛者とは程遠い、恋愛経験など片手の指一本で足りる私の、この本の第一印象は、「全然行動してないことなくね!? めっちゃ行動してんじゃん!!」でしたw 

なので、いわゆるネット上の「DT」を想定して読み始めると、「俺の思ってたDTじゃない……」的裏切られ方はするかもしれません。
松居監督の相談のスタンスが基本、「好きな人がいるのにうまくいかない!(DT卒業できない!)」的な感じなので、「好きな人すらできません」「恋愛……え、何それおいしいの」状態だと、「お前と俺だとスタート地点が全然ちがうじゃねえかあああああ」ってなるかも。

でも、だから読まない方がいいですよということはなく。
そういう方も、この対談集を読んだら、そもそも、何で自分が「恋愛何それおいしいの」状態になってるのか、省みるいい機会になるかもしれません。
っていうか、私はなりました。


私も「恋愛何それおいしいの」状態で読んでたんですが、松居監督と一緒に、結構、対談相手の方に心を折られまくりまして(笑)。
松居監督は対談相手の方とずっと恋愛の話をしているんですが、それって、要は人とのコミュニケーションの取り方の話だったりするんです。
松居監督は、この本の中で、「あなたがうまく恋愛できないのは、相手とうまく関係性を築けていないからでは」みたいな、真っ当なことを、色々な角度から指摘されまくるのですが、それが割と心に痛いんですよ……。







特にDTだったり、処女だったり、喪女だったりすると、「自分の世界を護りたい」っていう心理がどこかにあったりなかったりすると思うんですよね。
そういう、守りに入っている方は、この『さあハイヒール折れろ』を読むと、自分の世界の頑なさを意識する機会になるんじゃないかと思います。



■松居監督のマヌケ力


『さあハイヒール折れろ』の対談相手は6人。
前から順番にジェーン・スーさん、犬山紙子さん、マキヒロチさん、大森靖子さん、ペヤンヌマキさん、リリー・フランキーさん。
漫画を描いていたり、音楽を作っていたり、AVを撮ってたり……。
いずれも、クリエイティブに自分で何かを創り出すことを生業とされている方ばかりです。






モノを創り出す方が、自分の恋愛感情をどうコントロールしてるのか、してないのか。
そのあたりの話がたくさん読めるので、普通に読み物としても面白い一冊でした。


そんな対談相手の一人、犬山紙子さんが、松居監督について、このように言っています。



今日会ってみての勝手な判断ですけど、本当にマヌケ力が高いというか、実はすごい人なのに、私がこんなふうにプッと笑えちゃうってすごいと思うんですよ。





それな。

さすが犬山紙子さんと言いますか……まさしくこの一言がこの本の全てと言っても過言ではないような気がします。
全体的に、松居監督の喋り方が煮えきらなくて(笑)。
『ワンダフルワールドエンド』のインタビューを読んでいると、「男性、女性はあまり考えてなくて。今回は、橋本さん、蒼波さん、大森さんが輝けば勝てると思ったんで」(キリッ)みたいな、監督らしい、頼れる言い回しが多いんですけど、
この対談集ではこんな、自信なさげな↓会話ばかりです。



マキ「ということは、まだ童貞なんですか?」
松居「それはちょっと……まあまあまあ(汗)」
マキ「まだ守られているんですか?」
松居「心が一つになった段階で童貞じゃないするならば、もう……」




歯切れ悪っ。みたいな。(ちなみに、この対談集を最後まで読むと、この歯切れの悪さの原因が分かります)。

この対談集では「監督」としてカッコつけなければならない部分みたいなものはあまりなく、松居大悟という人の持つ情けなさとか、カッコつかなさが前面に出てて、そこが読んでて笑えたし、親近感が持てる部分でした。
松居監督の情けなさが、どんなエピソードも発言も「ちょw」って笑えるものにしてて、どうも憎めない……例え、自分の考えとは違う発言とかが出て来ても、あんまり不快感は残らないんじゃないかと思います。
さすが立て看板博士


■もはや男女関係ないと思う

この本のまえがきに、「女性の恋愛指南本は沢山あるのに、男の恋愛指南本がない」ということが書かれていて、この対談集は多少なりとも、男性向け恋愛指南本という側面があると思うんですが。

全然、そんなことないと思う。

男女問わず、色々指南される部分は多いんじゃないかと思います。
特にモテないタイプの方は。

というのも、この本の中には、かなりの頻度で松居監督が「恋愛」に対して「かくあらねばならぬ」と自分に課している規範とか、「こうだったらいいな」っていう理想が出て来て、それが対談相手に否定されたり、茶化されたりするんです。

例えば……



松居「そうなんですよ。こっち的にはファーストインプレッションでちょっと不器用そうだから、俺がリードできるんと思っていくと、向こうのほうがレベル高かったりとかしてヒヨったり。[…]」

ジェーン「やっぱり、女が一歩引いたほうが、男女関係は上手くいくっていうことをもともとわかってる、おとなしい女の子は。」[…]「おとなしい女の子は本当にものをしらないか、喜んでおいたほうが上手くいくことをわかっているかのどちらかですね」

松居「え、その、幸せな恋愛をするためには、本当は知ってるけど知らないふりをしたほうがいいってこと?」

ジェーン「スムーズな恋愛をするためには、それも手の一つとしてはあると思いますけど。幸せな恋愛をするためには、女の人は勝手に場面場面で男の人に男らしさを求めないことも大切だと思います。男の人は男の人で、『俺がリードしたい』っていうのが本当の欲求なのか、そうじゃないと社会的に何となくカッコ悪いってことなのかの見極めを自分自身でしてもらって」




↑のジェーンさんとの対談では、「男である俺がリードしたい」っていう願望が、うまく達成されたとしても、それは実は女の子が「リードさせてあげる」っていう社会的役割をこなしているだけだったりするんだよと指摘されていたり。



松居「これをつけていたらグッとくるっていうアイテムが実は……ベレー帽をかぶっていたら相当やられますね」
[…]
大森「一番ハマっちゃヤバいタイプですよね、ベレー帽かぶってて小さくてサブカル趣味で松居さんのことが好きだったら。ぜひハマっていただきたいですね(笑)。気持ちいいですよ、ボロボロになるのは」




私、この大森さんとの対談のベレー帽女子の下りめちゃくちゃ好きなんですが(笑)、このように、「ベレー帽が似合う女の子」に夢?を見ている監督が、一度、その夢破れて、ボロボロになればいいみたいなことを言われていたり。など、まあ、色々。
全体的に、松居監督は、「あなたが恋愛においてこうありたい/恋愛相手にこうあってほしい」という願望は、実は幻みたいなものですよ。現実とは齟齬がありますよ、みたいなことをよく指摘されてます(と思う)。


別に、一つひとつの指摘が真実かどうかとか、「そうじゃないことだってあるじゃん」みたいなこととかは、とりあえず脇に置いておいてもいいと思うんです。
それよりも、

あなたが築きたいのは「彼女」との関係性なのか、好きになっているのは「一人の人間」なのか。
自分の中にある、「こうありたい恋愛像」を実現したいだけだったり、「こんな人がいたらいいなというイメージ」を好きになっているだけで、実際の目の前の人が見えてなかったりはしないか。


そういうことを指摘されることそのものが結構大事だと思うんです。

そういう自分の頭の中にある「こうありたい」(理想の)恋愛像とか、「かくあるべき」恋愛の規範とかばかり追っていて、それが現実から離れていることに気付けないと、時に、実際のコミュニケーションに歪みが生じて、モテない現象が発生してしまう。

例えば、↓の「気負い」もそうだと思うんです。



松居「女性はつき合うと恋愛が一番になりがちじゃないですか。僕はどうしても常に一番にはできなくて、それでモメることが結構多くて……」[…]
マキ「『会えないの?』って言われたくないんだったら、リスクヘッジを自分でしちゃったほうがいいんじゃないですか?」[…]
松居「どうやって?」
マキ「絵文字のスタンプだけでも一日一個は必ず送る、とか」[…]「一日に一秒くらいは思い出すでしょう? それを相手に教えてあげたらいいんじゃないですか?」[…]「そのやりとりは相手が彼女じゃなくても、友達だって嬉しいじゃないですか。なんなら彼女だと思わなければいいんじゃないですか?」
松居「何を言ってるんですか(笑)」
マキ「彼女だと思うから重たくなるんじゃないの?」
松居「ああ、それもちょっとあります、気負いというか」




上の方にも書きましたけど、恋愛という名前がついているとはいえ、基本は相手と自分のコミュニケーションなわけじゃないですか。
だから、毎日メールしたいとか、俺は毎日メールしたくないとか。
どっちが正しいじゃなくて、そこをすり合わせること自体が大事で、「うわー恋愛重い……」で終わってしまったら、関係がうまく行かなくなってしまうっていうことなんだと思います。

そうやって、相手をうまく見られずに、恋愛という妄想ばかりを育てていたら、




松居「目の前の相手ではなく、一人で見たAVを思い出して見たり。そうなると見るAVも、本番のシーンより、その前のトーク部分を楽しむようになっちゃって」
ペヤンヌ「素晴らしいユーザーですね(笑)」




的な、「恋愛」の重圧に現実がついていかない……みたいなことが起きるのではないかと。

まあ、こんな感じで。
この本を読んでいると、「恋愛」と名前がつくことで、人間関係に「理想」とか「妄想」が入り込みまくって、関係の本質が見えなくなってしまうという現象
が、松居監督というテストケース(!)を通して、実によく見えて来る感じがします。


でも、「恋愛」という名前がつくことで、一対一のコミュニケーションの様子がおかしくなるのって、、男性に限った話じゃないと思うんですよ。
例えば、女性だって「尽くすワタシ」を演じることが往々にしてあったりするわけじゃないですか。
「尽くされる男性」として相応の人であって欲しいみたいな願望を相手に押し付けたりとか。
男性は年収が高いのがいいとか。背が高い方がいいとか。
女性は料理がうまくないといけないとか、女子力高くないといけないとか。
まあ、色々、理想とか規範とかがあるじゃないですか。
「社会的な(男女の)役割」「こうあってほしい自分」「現実の自分」「こうあってほしい相手」「現実の相手」が、こんがらがってるのは、男女どっちも一緒なんじゃないかと(恋愛経験が片手の指一本で足りる私が言っても……って感じなんですが)。




この対談の中では、松居監督の「こんがらがり」が少しずつ紐解かれて行く感じがするので、この対談を読みながら、自分自身の「こんがらがり」についても考えるきっかけになるんじゃないかという気がします。


(ちなみに、上↑で引用した五名の方の対談は、マイナビでの連載でも読めるのですが、最後の一人、リリー・フランキーさんとの対談はマイナビの連載では読めない書下ろしです。
読みたい方はぜひ書店へ)



■恋愛っていうかコミュニケーションの問題


などなど。
何か、色々書いてきましたが……。

私の数少ない、片手の指一本で足りる恋愛経験を思い返しますと、私、個人的には結構、松居監督に共感できる部分が多かったんです。
相手のことを名前で呼べなくて、自分のタイミングで呼び方を変えないと負けだみたいな感覚とか。
常に恋愛が一番にはできないけど、どうやらそれが恋愛のスタンダードな規範らしいから合わせた方がいいらしいんだけど、合わせるのは無理ですみたいな感じ?とか。

でも、それって、要は、自分のペースを崩したくない、相手に合わせられないっていうことですよね……。
上記の通り、私は、恋愛猛者からは程遠い、喪女的人間ですが……。
松居監督と同世代でこの体たらくなので、私の外見などは色々察してくださいという感じなんですが。
それにしても、やっぱり、「相手を思いやる < 自分を守る」っていう、不等号記号が自分の中で確立してしまっているところが、恋愛に興味ない(と自分では思っている)根本的な原因なのかなあと思いました。

たぶん、自分を変えたくないんですよね……。






私、別のブログでJ-popのレビューみたいなの書いてるんですけど、最近、頭打ち感を感じていて、その頭打ち感は、他のレビュー以外に、実生活で文章を書くときにも感じていることなんですが……。

薄々、何か、こう、人間がもっと豊かにならないと、映画とか、音楽とか聞いても、深みのある感想が出て来ないのではないかと……、そんなことを思い始めてたんですよね。

なんか、そんなことを思った矢先に、この対談を読んだので……。
あー、もっと人のことを考えられるようにならないとダメだなあと。
もっとちゃんと人の気持ち考えて、コミュニケーションとらないとダメだなあと。
自分を頑なにしてばかりだと、どんどん世界が狭くなるだけだよなあと。
そのようなことを改めて思い知って、自分の人生を振り返りながら、ため息しか出て来なかったです。


……というように、この『さあハイヒール折れろ』を読んで、結構、私の心も折れました。


この記事をここまで読んでいる方がいれば、ぜひ、あなたの心も折ってもらえばいいと思いますよ!!!!!! 



私も松居監督と同じくドラえもん好きで(主に劇場版ですが……)、この対談にもその話題が出て来たので、
この記事を書き終わったら久々に「ドラえもん のび太と夢幻三剣士」でも見ようかなーと思ってたのですが、
この「昔好きだったドラえもん」にこだわりを持つ之尾、れも、何か、昔の自分の思い出を過剰に大切にして、誰にもそこに立ち入らせたくないという自分を守りたい欲の現れなのかもしれません。
思い出にこだわりすぎてはいけないのかもしれない……。
……などと思うと、映画の観方もよく分からなくなってきます。
やっぱり、人の話をちゃんと聞いて、人のことを思わないと、ちゃんと音楽も読めないし、映画も観られないし、本もちゃんと読めないと思う。
その作品の声をちゃんと受け止められる人間になるためにも、もう少し人間を深めて行こうと思います……。


という愚痴ブログでした……(長くてすみません。読んで下さった方、ありがとうございました)


最後に。

この対談にもちらっと出て来る『私たちのハァハァ』と言う映画がもうすぐ公開されますよ!

http://haa-haa.jp/

9月公開なので、『さあハイヒール折れろ』を読みながら7-8月を過ごし、公開に備えるのもいいかもしれません(笑)。

今、前売り券を買うと缶バッチがもらえますよ!
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先行上映もありますよ!!



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# by n1watooooor1 | 2015-07-12 22:07 | 他に言う場所がなかった
ハロプロ、宇多田さん、大森靖子さんなど、楽曲レビュー・考察、ライブレポなどを書いています。→http://niwanotori.hatenablog.com/へ記事を移行し、このブログは愚痴や日記用に。ご連絡はこちら→ 管理人:にわの、Twitter:ok_take5、tori.niwa.noあっとgmail.com