宇多田ヒカル「SAKURAドロップス」と「Traveling」と「Kiss&Cry」の感想(昔)

大森さんの『絶対少女』の感想文の続きを書きながら、大森さんと宇多田さんを聞き比べてみたくなったのですが、その際、そういえば、私、昔、宇多田さんの曲についても感想文書いてたな、と思い出して、過去の文章を探ってみたら、出てきた。
もう6年くらい前に書いたものなので、もはや他人の文章みたいにも見えてくるんですが、若いなりに(笑)、がんばって書いてるなーとか、私、昔からやってること何も変わらないなーとか、なんか、微笑ましくもなったので、特にがんばってる感があるもの(自分で言っちゃう)をここに上げます。

下記、自分なりに頑張って書いてるなあ、と思いつつ、こいつ、ここは勢いで誤魔化そうとしてるな、と思う個所もあったりして(笑)、言葉の数が足りてないなーとも思うので、いつか、近いうちにもう一度、曲のレビューを書いてみたいです。
宇多田さんは、今も昔も、私にとって一番大切な作品を届けてくれた(る)人だし、いつだって、宇多田さん作品の世界観は、私のはるか先にいて(当たり前なのかもしれないけれども)、私がどんなに言葉を尽くしても尽くしても追いつけないです。


というわけで、2008年にタイムスリップ。







01.SAKURAドロップス  

 このアルバム(”DEEP RIVER”)は、この幻想的な曲で始まる。


 恋をして 終わりを告げ 誓う言葉 これが最後の heart break


 この曲は儚い恋の終わりと共に始まるが、しかし、単に桜の儚さと初恋の終わりを重ね合わせただけの曲ではない。


 降り出した 夏の雨が涙の横を通った すーっと
 思い出とダブる映像 秋のドラマ再放送

 どうして同じような パンチ何度もくらっちゃうんだ
 それが命の不思議



 夏の雨が涙の横を通る? 
 それはどんな構図なのか、さっぱり見当がつかない。だが、だからこそ想像の範疇を超え、どことなく幻想的だ。しかし、その次に続くのは「ダブる」という若者の口語体と「秋のドラマ再放送」という歌詞。
「夏の雨」に比べて「秋のドラマ再放送」は幻想的どころか日常性にあふれている。「秋のドラマ」だけならまだしも、その「再放送」である。私たちの頭には、昼や夕方に流れている一昔前の二時間ドラマや連続ドラマが浮かんでくることだろう。
 逆に、その次には、「パンチ何度もくらっちゃう」そんなしゃべり言葉が「それが命の不思議」という生命の神秘へとつながっている。


 この曲の歌詞の特徴は、幻想的な表現と、それに比べると日常的に過ぎる表現とがつぎはぎされてできあがっているところにある。


  この後、宇多田ヒカルは「どんぶらこっこ」(Keep Tryin')であるとか「甘えてなんぼ」(This is Love)といった、「そんな表現、普通、歌詞につかわねーよ」というような歌詞を歌の中にどんどん取り込んでいくことになるわけだが、この曲はそんな歌 詞の先駆けの一つと言ってもいいだろう。

 しかし、後の曲と違い、「SAKURAドロップス」においては、「ダブる」「秋のドラマ再放送」といった日常的、現実的な歌詞でさえ、曲調と他の歌詞に飲み込まれ、歌詞全体の幻想性の一部分になってしまっている。


 というのも、「SAKURAドロップス」において、幻想と現実は入り交じっているが、その「入り交じること」こそが、曲の幻想性を更に高める効果を持っているのである。
「夏の雨」と「秋のドラマ再放送」の混在は、聞き手に夢と日常が混じり合うような不思議な感覚を呼び起こすだろう。夢と日常の境目がなくなり、二つの世界が混じり合う。 恐らくそれは、夢が夢のままである瞬間よりも、幻想的なイメージを聞き手に抱かせるに違いない。


 この曲の歌詞は、この曲の後ろにどんなストーリーがあって、どんな女の子(男の子?)がいるのか、明確な答えを用意してはいない。色々な歌詞がつぎはぎされて、聞き手には歌詞と歌詞とのつながりがよく分からない。
 宇多田ヒカルは、この曲で、独自のストーリーではなく、独自のイメージを作り上げてみせた。
 曲の中で世界のイメージを立ち上げる。
 それが、これからしばらく続く宇多田ヒカルの曲のスタンスなのではないかと私は考えている。


02. traveling

 この曲が発売された当時、何故、この曲が流行し、こんなにも売れているのか理由が分からなかった。この曲は何が言いたのか、歌詞の脈略のなさに戸惑った。
今 思えば、宇多田ヒカルの迷走はここから始まったのだと思う。それまで彼女は見通しのいい大通りを走っていた。ところどころに標識もついていて、みんなにも 分かりやすい道だ。しかし、彼女は突然横道に逸れ、曲がりくねった脇道をクネクネと走り始めた。彼女を後ろから追いかける私たちは彼女がどちらへ曲がるの か分からず、右へ左へと振り回される。右へ曲がるのかと思えば左に曲がり、「そんなところに道あったの?」というようなところへ飛び込む。追いかける者は 息を切らし、次第に「ついていけないよ」という人が多くなっていった。
 そのような「迷走」の記念すべき一曲目が「Traveling」であり、このアルバム『DEEP RIVER』なのではないだろうか。

『DEEP RIVER』を聞いていると、どうも箱庭療法を思い出す。このアルバムは、宇多田ヒカルの脳の中に広がる様々な物語の集合体だ。彼女を追いかけているうち に、私たちは彼女の脳の中に迷い込んでしまった。そこはねじ曲がり、絡み合い、よく分からないおとぎ話に溢れている。

  仕事にも精が出る
  金曜の午後
  タクシーもすぐつかまる(飛び乗る)
  目指すは君

  どちらまで行かれます? 
  ちょっとそこまで
  不景気で困ります(閉めます)
  ドアに注意



「Traveling」はこうして始まる。
 細かいことを言えばこの歌詞の時点でもう少しおかしいわけで、

「どちらまで行かれます?」→「ちょっとそこまで」

  いやいや、お前タクシーに乗ったんだろうと。「ちょっとそこまで」じゃ運転手さんにも分からないだろうと。更に言えば、「不景気で困ります」と「ドアに注 意」の順番もおかしいような気がするし、「ドアに注意」ってタクシーでも使われることはあるだろうが、基本的に電車に乗る時に使われる言葉ではないのか?  しかも、この歌詞の後に

  Traveling 君を
  Traveling 乗せて
  Traveling アスファルトを照らすよ


  とか出てきて、ここだけ見ると、私が運転している車か何かに「君」が乗っているようだし(もしかしたら、車自身の目線に変わっているのかもしれないし)、 いつの間にタクシーから乗り換えたのか、乗り換えてないのか、この曲の主人公が今何に乗って何をしているのかよく分からなくなってくる。
 この曲の歌詞には、このようなどこかしっくり来ない違和感や矛盾が散りばめられている。


  Traveling どこへ
  Traveling 行くの?
  遠くならどこへでも

  Traveling ここは
  Traveling いやよ
  目的地はまだだよ

  Traveling ここで
  Traveling いいよ
  すべては気分次第



「ここはいや」と言ったすぐ後に「ここでいいよー」と言ってしまうような気まぐれが歌詞全体を支配していて、

「仕事にも精が出る 金曜の午後」「タクシー」という、いわば私たちの日常生活に近い世界が出てきたかと思えば、

「風にまたぎ 雲を登り~春の夜の夢のごとし」という幻想的な世界が次に現れ、

「Traveling 君を乗せて アスファルトを照らすよ
 Traveling どこへ行くの 遠くならどこへでも」という、気まぐれでノリのある(というか、ノリしかない)サビに突入する。

かと思えば

「みんな 踊り出す時間だ 待ちきれず今夜 隠れてた願いがうずき出す
 みんな 盛り上がる時間だ どうしてだろうか 少しだけ不安が残ります」という感傷的な部分を見せ、しかし、それを断ち切るかのごとく「Traveling♪」というサビがまた始まる。

 世界観が気まぐれにコロコロ移り変わり、この曲はいわば色々な世界観がパッチワークされてできている。
 しかも、歌詞のどれもが、「何か変だぞ?」という違和感や混乱を内包しており、その違和感が解決されることなく次の歌詞へと移り変わり、聞いているとだんだん、自分がどこか、何か変な世界に連れて行かれているような錯覚に陥ってしまう。
「何か変な世界」はこれからしばらく宇多田ヒカルの作品につきまとう感覚で、宇多田ヒカルの、曲の中で世界観を立ち上げて行くような感覚は、この曲から始まったのではないかと私には思えてならない。


* * *


 昔、20代になるかならないかの頃、この曲めちゃくちゃ好きでした。この曲を聞くたびに「この曲の女の子みたいになりてー」と切に思ってました。
「どちらまで行かれます?」「ちょっとそこまで~」みたいな、気まぐれな感じ、時間の流れの中ではなくて、その時その時にしか存在していないような女の子、そんな感覚にすごく憧れてたんですよね。
 今は、travelingみたいな女の子になりたいと言うにはちょっと老けてしまった感じで、昔ほど「なりたい」とは思いませんが、代わりに若さ(幼さ?)の特権のようなものを感じて失ってしまったものへの哀愁のようなものを感じます。



03.Kiss&Cry

「Kiss & Cry」を聞くとき、私にとって“鳥肌もの”なのは、そこにあるハズの差異が0になる時だ。
 それは歌の最初から現れる。


  不良も優等生も先生も恋に落ちれば同じよね


 宇多田ヒカルは時に韻というものを巧みに用いるが、この曲においてもその効果は至る所で見られる。
  この部分の歌詞において、不良(furyou)-優等生(yutousei)-先生(sensei)は韻で結びつけられる。不良、優等生は「ou」という 音によって、優等生、先生は「sei」によって。ここで注目すべきはそれぞれの言葉の持つ意味……というよりもイメージで、「不良」、「優等生」といえ ば、学校という場において対局に位置する存在同士であろうし、不良と優等生が生徒であるのなら、彼らの立場は「先生」とは相反するものだ。
 しかし、韻によって言葉の対立は剥ぎ取られ、相反する意味を持つはずの言葉が同じ地平で語られる。
 そして、最後に来る歌詞が、「恋に落ちれば同じよね」。言葉は韻によって結びつけられ、「恋」を通して同じになる。
 このように、「KISS & CRY」にはそれぞれの言葉と言葉の差異を消し、「同じ」ところで語ろうとする姿勢がある。


 こうして歌詞の最初から私たちは「差異の0化」の洗礼を受けるわけなのだが、更に秀逸な「0化」は次の歌詞にあると言いたい。

  お父さんのリストラと
  お兄ちゃんのインターネット
  お母さんはダイエット
  みんな夜空のパイロット
  孤独を癒すムーンライト
  今日は日清カップヌードル


 この部分の歌詞は、最初にあげた「不良も優等生も~~」の部分と基本的には同じ構造をしていて、
「お父さん」「お兄ちゃん」「お母さん」
「リ ストラ」「インターネット」「ダイエット」という単語は韻によって結びつけられ、最後に「みんな夜空のパイロット」という歌詞によって、それぞれ違う立場 にあるはずのものが「みんな」と一括りにされている。(もちろん、この「みんな」が指す「お父さん」「お兄ちゃん」「お母さん」に限らない「みんな」であ ろうが)
 ただ、この部分の歌詞が更に秀逸なのは、「お父さん」「お兄ちゃん」「お母さん」という家族たちに「リストラ」「インターネット」 「ダ イエット」というキャラを付けてそれぞれの差異を目立たせながらも、同時に韻でそれぞれの言葉を結びつけた点にあるだろう。特に、「リストラ」「インター ネット」「ダイエット」という何の関連性もない言葉並んでいるのに、家族という括りと韻によって、何の違和感もなく耳に入ってきてしまう瞬間には快感すら 覚えてしまう。
 リストラのお父さんもインターネットのお兄ちゃんも結局は、誰もみんな「夜空のパイロット」であり、孤独はムーンライトによって癒される。
 そして、最後に「今日は日清カップヌードル」と来るのが更に面白くて、誰の家にもどこにでもあるインスタントラーメンが、「日清カップヌードル」という固有名を維持しているところが何か笑えてしまう。



「被害者意識じゃなくて共犯者がいい」というように(ここでも、被害者-加害者の分離よりも、共犯という差異のなさの方が選択されている)、
被害者意識のどうも強い日本人に、「もっと近づいて」「諦めないで」ともっと攻撃的にタフに行こうぜという、「Fight The Blues」にも共通するような訴えをこの歌は内包していて、
内へ内へと向かいがちだった前回の『ULTRA BLUE』とは違って、外へ外へと向かっている時点で、やはりこの曲は『HEART STATION』の中にあってしかるべきというか……まさに『HEART STATION』の曲なんだろうなと思います。


『HEART STATION』は韻あんまり踏んでなくて、言葉遊びも少なく、「Kiss & Cry」みたいな曲が出てくると喜々として「謎解き」に挑んでしまうのだけれど、
やっぱり、そういう読み方ってあんまり良くないんだろうなぁと常々反省してます……。





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by n1watooooor1 | 2014-05-07 01:23 | 宇多田さん
ハロプロ、宇多田さん、大森靖子さんなど、楽曲レビュー・考察、ライブレポなどを書いています。→http://niwanotori.hatenablog.com/へ記事を移行し、このブログは愚痴や日記用に。ご連絡はこちら→ 管理人:にわの、Twitter:ok_take5、tori.niwa.noあっとgmail.com